mine(恋をしよう3)
額に浮かんだ脂汗を右腕で拭うと正斗はタクシーを降りた。 閑静な住宅街、その中でもひときわ目を引く坂の上の豪邸が川添家だ。 美しく刈り込まれたツツジが綺麗に咲き揃って今を盛りと香っている。近所の人だろうか、犬の散歩の途中で楽しそうに話し込んでいた。 石畳風の路面からは春の温度が立ち上っている。 川添家を前に正斗は静かに息を吸い込んだ。緊張した面持ちでインターフォンを押そうと手を伸ばしかけたその時、 「よ、やっと来たか。」 植え込みの脇から声を掛けられて声の方を振り向くと、すっかりスーツを着替えてラフな格好の秋也が立っていた。 「あ、・・・・・・・。」 スーツも悪くなかったが、シャツの裾をひらひらさせた秋也はすがすがしくて軽快な感じだ。 ホテルで向き合っていた時と違って、大学生の顔になっている秋也に正斗は緊張がほぐれるのを感じた。 知らない町、知らない家・・・・・しかし、そこに同い年の秋也がいくれたことで正斗の心はどこかほっとしている。 だけど・・・・・つい今しがた、実の父親にさんざ殴られてきたことなどこの秋也には知られたくなかった。 そんなことを、この恵まれた環境でのびのびと育ってきた秋也に知られて、ココロまで傷つきたくない。これ以上惨めになりたくない。 秋也の生意気で明るい笑顔を・・・・・ねたんだりしたくない。 俺にだって意地もプライドもある。・・・・・せめて、普通に努めたい。 ―――――なのに、――――――気持ちとは裏腹に次の言葉が出てこない。 なにか、言わないと。 なにか・・・・・・・。 挨拶・・・・「こんにちわ。」だろうか。でも、ついさっきまでホテルで会ってたんだ、そんなのおかしい。 だったら、「よろしく。」・・・・・・いや、「遅くなって悪かった。」ってまず謝ろうか。 「・・・・・・・・・・・・。」 もどかしい・・・・・・。 こんな時、人付き合いの上手いヤツは何て言うんだろう。なにか、気の利いた言葉ないのか。 ・・・・・じりじりと気ばかり焦る。 正斗が何も言えずに無言のまま立っていると、そんなこと気にも止めない風の秋也がひょいっと正斗の手から荷物を取り上げた。ノートパソコンと教科書くらいしか入っていない、軽い正斗の・・・・「持ち物」。 「あ・・・・・・・・・!」 自分の手から離れた荷物に最高の間の悪さを覚えた。 モタモタしているうちに、結局正斗は挨拶のタイミングを逃してしまった。もう2度と同じチャンスは来ない。 また・・・・・・・・最初の一歩で躓いた。 子供の頃から最初に上手くやれなくて距離を作ってしまう。バカみたいに治らない。 『クール気取ってむかつくんだよ。』『なーに世界作ってんの。』『クライよなー、すげー陰湿な感じ。』 いつだってみんなの波に乗り遅れる。乗りたい、乗りたい、そう思って気持ちは焦るのに気が付けば周囲は遠くなっている。みんなは何も考えずにわーっと仲間になれるのに。 「玄関こっち。」 正斗は飄々と前を行く秋也を眩しい想いで見つめた。 ・・・・・・・身体がなんだかすごく重い。 重い足を引きずるようにして、正斗は秋也の後に従った。逃げ出したいくらい気まずい空気が自分を取り巻いて離れない。 「ここが、ウチ。」 ニヤッと笑って秋也が顎で差した方を何気なく正斗は見た。 「・・・・・え・・・・・?」 ――――――そこには、『Akiya Kawazoe&Masato Asitsuka』と記された玄関プレートがあった。 これ・・・・・・・・。 「笑わすだろー?母さんがさ、婚約決まってからわざわざ特注で造らせたんだってよ。焼き物だぜ?どうよ。」 勝手にこんなもん付けんなってんだよなー。秋也はコツンと指でプレートを弾いた。 笑う秋也に正斗はまたしても返事が返せない。 どんな、リアクションをしたらいいんだろう・・・・・・・・・正斗の中の引出しを全部開けてみても相応しいものが見つからない。持って、ないのだ。 気持ちはこんなに焦るのに、何も出てこない・・・・・・・。 きっと、今、自分は最高に困惑した顔をしてる。そんなことだけは分かる。 ・・・・・・・違う・・・・・・・そうじゃ、無いんだ。違うのに。 ますます身体は重くなる。 大きく玄関を開けて秋也は正斗を自分の棟に招き入れた。 「これからずっと暮らすんだ。いろいろ見たいだろ?ここが俺ん家。母屋とは繋がってるからメシなんかはみんな向こうで食ってる。親父に会わせたいんだけど今博多なんだわ。ついさっき母さんも呼ばれてったからなー、当分帰ってこないかもしんない。」 面倒くさそうに靴を脱ぎながら秋也は正斗に「分かった?」っていう目線を向けてきた。 正斗はそれには、なんとかコクンと頷いて答えた。 秋也の家に入った瞬間、正斗は不思議な開放感を感じた。上昇気流がさーーっと家の中を抜けてゆくような、伸びやかな空気があって、はるか上の天窓から光が柔らかく注いで、家が住む人を優しく守っている・・・・・。 思わず、正斗は天を仰いだ。 「―――――― ・・・・・・・・・・いい、家。」 無意識の言葉が自然と口から零れた。 初めて来た家なのに、あんまり家が優しいから・・・・・・・。 そんな正斗に秋也がちょっと目を見張った。 「・・・・・分かるか?!」 「?」 「この家、俺のじーさんがデザインしたんだ。俺がこの世で1番尊敬する人。」 まるで自分が褒められたかのように嬉しそうに秋也は笑う。 「あ、でもじーちゃんは、あの世なんだけどさ。」 おれも設計屋になるんだ。 そう言いながら正斗を振り返った秋也の目がふっと探るような色になる。 「?」 「おい、おまえ・・・・・・。ひょっとして具合悪いか?なんか真っ青・・・・・・・・ちょ、おい?正斗?!」 呼ばれて正斗は「大丈夫、何とも無い。」と言おうとした。笑って見せようと思った。今なら出来る気がしていた。 なのに、ようやく言葉が思いついた時に限って声が出ない。顔が作れない。 自分がふらっ・・・とよろけたことにも気が付かない正斗は、尚も必死で、一生懸命笑おうとしていた・・・・・・。
正斗は目を開けてみて初めて、自分が眠っていたことを知った。 見覚えの無い天井に心が記憶を確認する。 あ・・・・・そうか、川添・・・・・・。 「おう。目、覚めたか。」 怒りを含んだ声に、ハッとして身体を起こすと、ベッドサイドの椅子にドカッと座って、腕組みをしている秋也と目が合った。 俺っ、・・・・・倒れたのか?! 「参考までにイイコトを教えてやる。今日は既に翌日だ。つまり、おまえは昨日の夕方ぶっ倒れて、今は次の日の昼間だ。」 怒り心頭といった感の秋也に正斗は慌てた。 「ごめ、悪い・・・・・・。」 正斗が謝ると、ますます秋也の眉間に不機嫌な縦ジワが刻まれた。腕組みをしたまま横柄に脚を組んで相変わらず睨みつけてくる。 どうしていいか分からずに、思わず正斗は俯いた。すると、すっかり自分が着替えさせられているのに気が付く。 ――――深い紺色のパジャマ。 瞬間、バッと正斗はそのパジャマの襟元を握り締めて押さえつけた。 見られたっ?! 一気に血液が顔に集中してかあっと熱くなる。 嘘だっ・・・・見られた!! 「おまえが何を慌ててるか想像つく。俺、隠し事ってキライだからはっきり言うけど着替えさせたのは俺だ。・・・・・・全部見た、おまえは見られたくなかっただろうけど。」 仕方ない、これは仕方ないんだ・・・・・倒れて意識をなくしたのは自分なんだから。 でも、いくらそう思ってみても、屈辱的な気持ちは拭えない。 見られたく無かった・・・・・もう、誰にも。 「・・・・・・・そ、っか。」 それがやっとの返事だった。 悔しかった。たまらなく悔しかった。見られたことも・・・・・こんな自分も。 「気持ち・・・・・悪かったろ。」 ―――――正斗の身体には至るところに無数の傷跡がある。 正斗本人にも、数え切れない 消えなくなった痣もある。ただれてケロイド状になった火傷もある。身体中がデコボコなのだ。 昔、小学校のクラスメイトが正斗に向かってこう言った。 『おまえ、フランケンだ!』 叫んだその声に反応したほかの級友が集まってきて、正斗の身体中を興味津々で眺め回した。 奪われたシャツを取り返そうとする正斗を『フランケンが襲ってきたー!』と彼らは喜んだ。 大学生になって、ベットをともにした女の子からは『ブラックジャックみたい。』と笑われた。 ・・・・・もう、顔を上げられない。 心は隠せても、身体は隠せない。 「正斗、おまえ何で抵抗しなかった。」 「・・・・・・・え・・?」 「おまえの身体の痣、相当新しいのがあるじゃん。何で黙って殴らせた。」 ・・・・・・・まさか、知っている・・・・・・・? 秋也は知っているのだ。 19年間誰にも黙ってきた虐待の秘密を知っているのだ。 その上で聞いているんだ・・・・・・・19にもなって何故、と。 「答えろよ、何で好き放題殴らせたりした!」 堪えきれない怒りに秋也の声が低く震えている。 「・・・・・・・・・仕方・・・・無いんだ・・・・・動けないから。・・・・・・声も、出せない。」 あまりに幼い頃から虐待されてきたため、正斗は19になり、父親よりも大きく成長した今でも抵抗することが出来ない。刻み込まれた恐怖は身体を硬直させ、ただされるがままになってしまう。 「そんなのって、ねーだろ・・・・・。」 秋也の言葉に正斗はゆるく首を振った。 「―――――仕方、無いんだよ。」 自分でどうすることも出来ないのだから。 正斗はこうやって自分に言い聞かせてバランスを取ってきた。 仕方無い、しょうがない・・・・・・・そう思わなくては生きて来れなかった。 自分を殴るのは他でもない実の父親なのだ。他に何がある? 仕方無い、しょうがない・・・・・。なにもかも。 友達など1人も居なかったけれどそれで良かった。 だって、仕方無いんだ・・・・・・・・・。 仕方、無い。 その時突然、正斗の腕が強い力に引き寄せられた。 「?!」 考える間もなくぶつかるようにして正斗は秋也の胸の中に抱き締められていた。 ぎゅぅ、っと秋也の腕が正斗を締上げる。 優しい圧迫感が正斗を苦しめる。息をするのも苦しい。 「同情・・・・なんかじゃないから。」 同情なんかじゃない。ただ、切なくて、愛しくて、秋也は涙が出そうだった。 「俺、おまえに同情なんかしてない。」
「・・・・・・うん。」
・・・・分かる。 全然、嫌な感じじゃないから。 ちっとも卑屈にならずに居られる。自分を卑下せずにいられるから・・・・・。 「・・・・・正斗。」 「・・・・・うん。」 「俺さ。」 「うん。」 「おまえに傍にいて欲しい。」 どきんっと正斗の心臓が跳ねた。思わずじっと秋也の腕の中で大人しくなってしまう。 「・・・・・うん。」 正斗は目を閉じて秋也の腕に凭れていた。低く掠れた小さな声で秋也の言葉に短い返事をする。・・・・・それは不思議なくらい正斗を穏やかで素直な心にさせた。 「もう、あの家には帰んな。」 「うん。」 「ずっと、ここに居ればいい。」 「うん。」 「絶対だ。」 「・・・・・うん。」 「・・・・・・・・・。」
「正斗・・・・・。」 「・・?」 「俺さ・・・・。」 「・・・・・ん。」 「俺な・・・・。」 「・・・・?」 「・・・・・・おまえのこと、―――――抱きたいよ。今、ここで。」 照れを抑えて必死で言った秋也の言葉に正斗は思わず我が耳を疑った。 抱きたいって・・・・・・俺を? 秋也の真剣さが伝わってくるだけに言葉が胸の奥まで届く。 「本気?」なんて確認しなくても、秋也は本気だ。痛いくらいに。 その優しい痛みが正斗を刺す。 それは、すごく心地よく正斗を揺さぶる痛みだった。 息を殺すようにして秋也が自分の返事を待っている。腕に遠慮がちに力が加えられたのも、分かる。 正斗にはどこかで、嬉しい・・・・と感じてしまった自分を否定できなかった。誰かが自分を欲しいと言うなんて。 「やっぱ、ダメか?」 秋也の腕の中で正斗はそっと目を開いた。 「・・・・・・いいよ。」 俺なんかでいいんだったら。いいよ。 秋也に抱かれるんだったらいい。 俺・・・・・・・誰かに抱かれたことなんか、一度もないから・・・・・・・・・。 抱きたい、なんて言ってもらったことも。 こうして抱き締めてもらったことも一度も無いんだ。 抱かれるって・・・・・・どんな感じなのか想像もつかない。 ―――――― 俺、分からないんだよ、全然・・・・・・・。 だから・・・・・。
互いの鼓動が少しずつ、強く、早くなる。 ――――正斗は秋也の腕の感触に、じんわりと熱を帯び始める自分を確かに感じていた。
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